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2011520日 第20回  

 

 

『救い主イエス・キリスト』 救い主イエス・キリスト「罪を犯した女」

           ヨハネ81節から11

 

主題 主イエスは、罪を犯した者を赦し、再び犯さないように導く

 

暗証聖句マヨハネ811

わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。

 

主題の背景

新改訳聖書の欄外に「古い写本のほとんど全部が ヨハネ7:538:11を欠いている。この部分を含む異本の相互間の相違が大きい」とある。そういう理由で、この箇所の真正性(しんしょうせい)が論争されてきた。真正性に反対する学者は、現存する最古のギリシャ語写本に欠けていることと 文体や表現形式がヨハネの福音書の他の箇所と異なることを理由に挙げる。登場する女性の不道徳をイエスが肯定していると考える学者もいる。それに対し真正性を支持する学者は、それでも古い写本の多くがこの箇所を含み、ラテン語やペルシャ語などの写本にも書かれていること アウグスティヌスやアンブロシウスなどの権威者がこの箇所を注解したばかりか、その真正性を擁護していることなど挙げ 欠損の理由を写字生の誤りと考える。「不道徳」については、イエスが訴える者たちの要求を拒絶されただけで、姦淫(かんいん)の罪を肯定されたわけではないと説明する。

いずれにしても、この箇所が現行の聖書本文に含まれていることには正当な意義があると考えてよいでしょう。

4月から始まった「救い主イエス・キリスト」の単元も最後となった。本科はイエスを陥れ(おとしいれ)ようと謀る(はかる)律法学者やパリサイ人をイエスはどのように扱われたかを語られている。イエスの前に引き出された女性の態度と、救われた後の生活にイエスが関心を持ち、励ましてくださる点に注目

律法学者らはイエスに「姦淫(かんいん)の現場でとらえられた女」を裁かせようとした。イエスを罠(わな)にはめて告発するため。女は、裁かれても仕方ないと覚悟している

 

1、           律法学者はイエスに「悪魔の選択」を突きつけた

 この女をどう処分するか?もし「女を赦せ」というなら、モーセの律法に違反することになります。しかし、律法通りに「石打ちだ」=死刑と言えば、イエスが説く愛の教えに反することになります。いずれを選んでも窮地におちいるようにしかけられたわなでした。これを「悪魔の選択」といいます。律法学者らは何度も「悪魔の選択」をイエスにつきつけました。(カイザル皇帝に税金を納めるべきか?マタイ22:1722)イエスはどう応じられたのでしょうか?

 

2、イエスは「神の選択」で応じられた

イエスが彼らに答えられたのはただ一言「罪のないものが、最初に彼女に石を投げなさい」(参照申命記17:27)イエスは彼らの魂胆(こんたん)と隠れた罪をご存知でした。しかしそれを暴かず(あばかず)彼らに自分で自分をさばくように仕向けられたのです。人の罪を情け容赦なく告発する者は、しばしば同じ罪を内に隠しているものです。そのやましさから残酷になるかもしれません。彼らは、女をイエス告発の道具として使うだけで、同じ罪びとに対するあわれみのかけらもありませんでした。

イエスの「罪のない者が、最初に・・・」ということばは、律法学者らを聖なる神の前に立たせました。もし石を投げたなら、その者は神の前に恐ろしい罪を重ねることになります。つまり、石をなげないという選択しかないのです。律法学者らは年長者から順に去っていきました。

 

3.「わたしもあなたを罪に定めない」と言われる

 彼らが去って、残ったのはイエスと女だけでした。女は逃げずに、イエスのさばきを待って「そのままそこにいた」のだと思います。しかし主は女を罪に定めませんでした。「わたしもあなたを罪に定めない」とのことばは、罪深さと恥ずかしさにおののく女性に対する赦しの宣言です。女性を去らせるときイエスは「今からは決して罪を犯してはなりません」と言われました。悔い改めの真実を認めたうえで、その決意が継続するように励まし、新しく生まれたものにふさわしく生きるように厳しく戒め(いましめ)られたのです。

主が来られたのは「義人を招くためではなく、罪人を招くため」(マタイ9:13)だからです。とはいえ、姦淫(かんいん)は死に値する罪です。後年、女はイエスが十字架にかけられたことを聞いたとき、「あなたを罪に定めない」ということばに、主の命の重みがあったことを知り、心ふるえたことでしょう。

ある日、女は一人の男に声をかけられます。「お前はあの時の女だな」「あっ、あなたはあの時のパリサイ人ね。でも、もう私はあの時の女ではありません。あの私は死にました。今は、新しい私が生きています」そんな場面を想像します・・・・

 

申命記172節~7

17:2 あなたの神、主があなたに与えようとしておられる町囲みのどれでも、その中で、男であれ、女であれ、あなたの神、主の目の前に悪を行ない、主の契約を破り、

17:3 行ってほかの神々に仕え、また、日や月や天の万象など、私が命じもしなかったものを拝む者があり、

17:4 それがあなたに告げられて、あなたが聞いたなら、あなたはよく調査しなさい。もし、そのことが事実で、確かであり、この忌みきらうべきことがイスラエルのうちに行なわれたのなら、

17:5 あなたは、この悪事を行なった男または女を町の広場に連れ出し、男でも女でも、彼らを石で打ちなさい。彼らは死ななければならない。

17:6 ふたりの証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。ひとりの証言で死刑にしてはならない。

17:7 死刑に処するには、まず証人たちが手を下し、ついで、民がみな、手を下さなければならない。こうしてあなたがたのうちから悪を除き去りなさい。{死刑にするにはまず証人たちが石を投げ 次いで民が皆で石を投げる}

 

レビ2010

20:10 人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。

 

「婦人よ」ヨハネ8:102:4 19:26参照)

 優しさのこもった呼びかけ。その呼びかけに対し女性の答えは「主よ」があり、イエスに対する信頼が表れています。

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2011513日 第19回  

 

『救い主イエス・キリスト』 救い主イエス・キリスト「罪を赦す権威」

           マルコ2:112 (マタイ9:18 ルカ5:1726

 

主題 主イエスは、罪を赦す権威をもっておられる

 

暗証聖句マルコ25

子よ、あなたの罪は赦されました。 

 

主題の背景

新約聖書には、祭司長(サドカイ人)やパリサイ人と並んでたびたび「律法学者」が登場する。「エズラはバビロンから上ってきた者であるが、イスラエルの神、主が賜った(たまわった)モーセの律法に通じている学者であった」(エズラ7:6)とあるように、バビロン捕囚から帰還した指導者エズラが、聖書に出てくる最初の「学者」と呼ばれる人である。彼は祭司であり、(エズラ7:12)「主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教え」た。(7:10)そのように当初は祭司が人々に律法を教えていたが、後に律法学者は専門化し、パリサイ人同様、イエスに反目し、その行動を監視する者として描かれている。「マルコと呼ばれているヨハネ」(使徒12:12)はペテロの通訳者として知られるが、マルコの福音書の中で、ペテロの驚きや感動を、ありありと描写している。

この世は意志の世界である。主のご意志一つですべてが動く。また主は、私たちが示す 主への信仰の強い意志、主を愛する意思、主に従う意思にも応答される。私たちに可能かどうかではなく、意思があるかどうかを主は見られる。

 

1、           エスは友らの愛と信仰の強い意志に応えられた

 4人の人が屋根をはがし、中風の友をイエスの前に運び込みました。主の前に運び込みさえすれば癒してもらえるという確信から出た 思い切った行動です。容易に穴をあけられる屋根であるにしても、実に大胆です。こうして4人は友に対する愛と、主に対する信仰が本気であることをしめしました。本気の愛と信仰は、主の本気を引き出すのです。もちろん強い愛と意思を示すといっても、毎回「屋根をはがす」ようなことをすればよいのではありません。でも大胆な信仰の行動を一度も起こすことなく人生を終えてはならないと思います。人生には「屋根をはがす」強い意志が求められる時が必ずあります。

 

2、           イエスは人の罪の赦しを宣言された

 4人の信仰、そしておそらく癒しを願った病人自身の信仰の応答として、主はその人に「あなたの罪は赦された」と宣言されました。彼らは癒しを望んでいましたが、病人が本当に望んでいたのは、罪の赦しでした。罪が赦されなければ、病気が癒されても魂は滅びます。しかし 罪が赦されれば、病気が癒されなかったとしても、永遠のいのちにあずかれます。ですから赦しだけでも十分だったのです。しかし主は、病は特定の罪の結果であると信じ込む人たちのために、癒しの機会を用意しておられました。

 

3、           イエスの罪を赦す権威は十字架にある

 さてそこに、イエスの赦しの宣言につまずいた者たちがいました。何を目撃しても感動せず、理屈だけこねる律法学者たちです。「神にしか罪は赦せない。よってイエスは神の冒涜(ぼうとく)者だ」そんな彼らの心の中を見て、イエスはご自分に「罪を赦す権威」があることを示す機会にされました。

主は問われます。「罪は赦された」というのと「起きて歩け」というのとどちらが簡単かと。。。もちろん人間には「起きて歩け」と命じるほうが難しいのですが、人となられた神の子イエスには「罪は赦された」と宣言するほうが難しいのです。なぜなら罪の赦しの権威を実質的なものにするには、十字架で命を捨てなければならないからです。罪人(つみびと)の身代わりとなった者だけが、罪を赦す権威を有します。中風の人に赦しを宣言されたイエスは、強い愛の意志をもって十字架に向かわれました。十字架の愛だけが権威の源なのです。

 

*本課の舞台の家は

カペナウム(ガリラヤ湖畔にありイエスの伝道の本拠地)にあるシモン・ペテロの家といわれている。現在カペナウムへ行くと、そこはイエスの町とサインボードに書かれていますが、聖書では「自分の町」(マタイ9:1)と書かれています。

 

*パレスティナ地方の家

は、普通一部屋であり毎年秋 雨季が来る前屋根を修理した。屋根は簡単な作りで、木材の「はり」の上に木の枝をわたし、むしろなどの敷物をしき、その上に土をもって踏み固めただけであった。家の外側には階段があり屋上にのぼれる

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201156日 第18回  

 

『救い主イエス・キリスト』

 

救い主イエス・キリスト「サマリヤの女を導く」

  ヨハネ41節~30節 39節~42

 

主題 主イエスは、永遠のいのちへの水をくださる

 

暗証聖句ヨハネ414

わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。その人のうちで泉となり、永遠のいのちの水がわき出ます。 

 

主題の背景

BC722年 北王国イスラエルの首都サマリヤがアッシリヤに滅ぼされた。アッシリヤのサルゴンⅡ世は、イスラエルの指導者たちを捕囚として自国に連れ去ると同時に、サマリヤに他国人を移住させた。それはイスラエルを弱体化するための巧みな政策で、やがて雑婚が始まり、混血の民が生まれた。これがいわゆるサマリヤ人である。血統的な純潔を尊ぶイスラエル人からエルサレムの神殿に受け入れられなかったサマリヤ人たちは、ゲリジム山に神殿を建てた。他国人が持ち込んだ宗教の影響を受けた彼らは、真の神を礼拝しながら偶像にも仕え(Ⅱ列王記17:33)サマリヤ人とイスラエル人は宗教的にも対立するようになった。この反目は主イエスの時代にも続いていた。

さて、ユダヤ人の宗教指導者たちがバプテスマのヨハネの素性を調査するために祭司とレビ人を遣わした時、ヨハネは、今に自分より偉大な方がおいでになると、救い主イエスの到来を告げた(ヨハネ1:1928

そのイエスは、ニコデモの訪問を受けた後、エルサレムの都を離れ「ユダヤの地」、すなわち田舎の方(マタイ2:6参照)に行き、そこに滞在して福音を伝え、弟子たちがバプテスマを授けていた。(3:224:2

サマリヤの女は愛と真理に飢えていたのでしょう。その女に主イエスは、「乾かない水」と「霊とまことによる礼拝」を教えられた。それは彼女が求めていた本物の愛と礼拝であった。

 

1、           イエスは女に「乾かない水」を与えられた

 サマリヤの女の渇いた心は、毎日、真昼にくみに来なければならない「井戸の水」に象徴されます。イエスはその水を指し「この水を飲む者は渇く」と言われました。「井戸の水」とは偽りの愛、消え去る喜び、一層渇きをます快楽のことです。イエスはさらに言われました。「わたしが与える水を飲む者は、決して渇くことがありません。」「乾くことのない水」とは永遠のいのちです。いつまでも続く愛、失望に終わらない希望、聖霊による満たしです。サマリヤの女は7番目の男性に出合い、そのかたから「いのちの水」を受け、渇きの遍歴に終止符を打ちました。

 

2、           イエスは女に、霊とまことによる礼拝を教えられた

 イエスはさらに、革新的なことを彼女に語られます。サマリヤ人は異民族、異教と融合してゲリジム山で礼拝し、ユダヤ人はエルサレムの神殿で礼拝してきました。女が言うとおり、いずれも場所に縛られた礼拝です。(20節)しかしイエスは「いつでも、どこでも、自由に、真の礼拝者が霊とまことによって父を礼拝するときが来る」と告げられました。人間の教えや伝統から解放され、打ち砕かれた悔い改めの心で、自分の体をきよい、生きた供え物として捧げる礼拝です。場所中心、人間中心から、聖霊による神中心の礼拝への移行です。イエスは「今がその時です」と促がされ、女は真の礼拝者に造り変えられていきます。

 

3、           イエスは驚きで女を救いに導かれた

 イエスはこの女を救いに導かれるのですが、女を驚かせるような出会い方をしています。まず、サマリヤ人を蔑視するユダヤ人の、イエスから近づかれたこと。当時、公の場所では男は女に声をかけなかったが、その習慣を破られたこと。異邦人とは飲食を共にしないユダヤ人が、サマリヤ人の女の手から水を飲もうとしたこと。しかも、ユダヤ人の男のイエスが「水を飲ませてください」とへりくだって頼まれたこと。そしてもっと驚くべきことは、この女の心の飢え渇きを癒された方が、十字架上で恐ろしいほどの渇きに苦しみ「わたしは渇く」と言われたことです。私たちも、その身代わりの渇きによって癒されました。

あなたは渇いておられますか? 主は、あなたに意外な方法で近づかれるかもしれません。

 

ローマ12:12

12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

 

*「第6時ごろ」

現在の昼の12時ごろ 通常水汲みは夕方の仕事であるが、サマリヤの女は人と顔を合わせたくない事情があり 日差しの厳しい真昼にやってきた。

 

*「このわたしがそれです」

彼女のメシヤ待望の発言に対し「このわたしがそれです」(ギリシャ語エゴー・エイミ)と答えられた。それは「わたしです」を意味する一般的な表現であると同時に、かつての神がモーセに語られた「わたしはある」という神名を意味する特別な用語でもある。(出エジプト3:1314)主イエスはこの「エゴー・エイミ」という表現を繰り返し用い、ご自身が神であることを証言された。

 

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2011429日 第17回  

 

『救い主イエス・キリスト』

 

救い主イエス・キリスト「ニコデモの訪問」

  ヨハネ31節~15節 750節~51節 1939

 

主題 神の国に入るには、新しく生まれなければいけない

 

暗証聖句ヨハネ33

まことに、まことに、あなたがたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。 

 

主題の背景

新約時代の主要なユダヤ人グループに、サドカイ派とパリサイ派がある。サドカイ派は、エルサレムの神殿を中心とする祭司の家系に連なる裕福な上流階級だった。サドカイ人とパリサイ人は、イエスの共同の敵として福音書に登場するが、サドカイ派はパリサイ派と違って「モーセ5書」に記された律法にのみ権威を認めたので、そこに記されていない復活や死後のいのちなどの教理を否定した。パリサイ人は手工業などに従事する中産階級の者で、律法遵守(りっぽうじゅんしゅ)という個人の自覚に基づいて党派を結成した。祭司のように世襲ではなく、個人的学識と徳の高さで尊敬を集めており、祭司がエルサレムの神殿を中心に生活するのに対して、パリサイ人は各地の会堂や学校で指導した。パリサイ派の最大の特徴は律法を厳格に解釈し、実行しようとしたこと。さらに彼らは、先祖たちの言い伝え(口伝律法)に従って聖書を解釈すると同時に、言い伝えに新しい解釈も付加したので、守るべきことは膨大な数に及んだ。宗教的な伝統や儀式はもともと神の教えの具体的表現なのだが、それに自分たちに都合の良い解釈を加えると、本来の神の教えから遠く離れてしまう。イエスはそれを「あなた方は、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている」(マルコ7:8)と叱責(しっせき)なさった。

パリサイ派は、多くの場合、イエスに敵意を抱く偽善的な宗教家として描かれているが、その中にも、ニコデモのようにイエスの人柄と新しい教えに関心を抱く誠実な人物もいた。ニコデモはパリサイ派の指導者であり、ユダヤ人議会であるサンヘドリンの議員であり、エルサレムでは有数の金持ちだったようだ。地位や富があるというのは、誇りの生活の安定をもたらすが、外からも内からも結構不自由なものである。「このままではよくない」と思いながらも、たいていはそのまま一生を終えてしまう。ニコデモもそうなるところであった。

1、           ニコデモはひとり、ありのままでイエスの前に出た

ニコデモは夜闇にまぎれ、一人でイエスに会いに行きました。彼は律法主義に疑問を感じていても、公けにはしにくい立場にいました。自分の能力に限界を感じ、富のむなしさも味わっていたことでしょう。その人が、自分を隠す「仮面」(肩書き)を外し、パリサイ派に憎まれているイエスを「神のもとから来た教師」と認め、へりくだって教えを求めたのです。霊的無知もあえてさらしました。群れから離れて、ひとりにならなければ、「仮面」を外すことはできません。一人になる勇気がなければ、真理と向き合えないのです。この勇気ある謙虚な姿勢が、神の国を見る大きな一歩となりました。

2、           ニコデモは「新しく生まれる」ことを知った

イエスは、人が「新しく生まれる」ことを求められます。そうしなければ神の国の祝福を見ることはできないのです。人は出自に左右されます。

生まれた国、時代、民族、親、性別、遺伝子などによって大部分が決まります。もし出自に人生を決められたくないなら、「新しく生まれなおす」ほかありません。肉によって生まれた者はどこまでも「肉」であり(6節)肉体の誕生のままでは神の国には入ることができません。人は罪の体を持っており、いくら外側を変えてみても罪の性質は変わりません。神の国に入るためには、罪の性質に支配された自分が死に、新しく生まれなければなりません。ニコデモはこの新生の奥義を知ることになりました。

3、「新しく生まれる」とは聖霊によって生まれること

  「古い自分」がキリストと共に十字架につけられ、死んで葬られ御霊によってキリストと共に「新しい自分」として生まれること、新生(霊的誕生)が必要であることを言われます。「御霊によって生まれたものは霊」であり「新しい人」は御霊によって生きることになります。神は霊です。神の子となることは「新しい人」になることが必要なのです。ヨハネ3:7の「新しく」は「上から」とも訳せる言葉で、救いが人間の行いによるものではなく、御霊(聖霊)による神の業であることをしめす。御霊の導きによって罪を認め 神の方に向きを変え(悔い改め)、主イエスを救い主として信じ、また水のバプテスマをうけ賜物として聖霊の内住がある。

後日新生したニコデモは、パリサイ派から追放される覚悟でイエスを弁護しアリマタヤのヨセフと共に堂々とイエスの遺体を葬り、イエスの弟子であることを表明しました。イエスの個人的な導きが、ニコデモの人生を内側から変革されたのでした。

あなたは自分の弱さや本性を隠すための「仮面」(肩書)をつけ、それを一生懸命演じてはいませんか。そんな「古い自分」を守るより「新しい人」を堂々と生きましょう。

 

*水(ヨハネ3:5) ヘブル的解釈

ヘブル語では羊水のことも指す 文面の内容では「水によって生まれる」とは、お母さんの母体(羊水)から生まれるという意味で肉体の誕生を意味する。

それに対し 御霊によって生まれるとは、神の御子を信じることにより新しく生まれることである。御霊によって生き 永遠の命が与えられる状態。

 

*モーセが荒野で蛇をあげた

イエスは新しく生まれるための唯一の方法を教えるために旧約聖書の出来事を引用。荒野で神に逆らったイスラエルの民は、燃える蛇にかまれて次々に死んでいったが、旗ざおの上にあげられた青銅の蛇を仰ぎ見る者は癒された(民数記21:49)。それと同じようにイエス・キリストは十字架の上にあげられなければならない。「それは、信じる者がみな、人の子(イエス)にあって永遠のいのちを持つ為です」とイエスは言われた。つまり罪の償い(つぐない)のために十字架上で死に、復活して天に上げられたイエス・キリストを受け入れることによってのみ、人は新しく生まれ、永遠の命を得ることができるという神のご計画を語られた。

 

ヨハネ11213(現代訳)

たとい選民でなくても、このキリストを受け入れる人はだれでも、神の子どもとしての権威をいただくことができる。このキリストを信じる人はだれでも、救っていただくことができる。キリストを信じる人は、神が生まれ変わらせてくださるのであり、それは決して先祖や親の身分や地位によるのではなく、人間の願望や意志によるのでもなく、ただ神の御心によるのである。

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2011422日 第16回  

 

『救い主イエス・キリスト』

 

救い主イエス・キリスト「失われた人を救うために」

ルカ191節~10節 ローマ51節~11

 

主題 主イエスは、罪人を救うために遣わされた

 

暗証聖句ルカ1910

人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。 

 

主題の背景

「救」の字を含む熟語を数えてみると10指に余るそれらの熟語からは、強者が弱者を、富むものが貧しいものを助けるといった図式が浮かぶ。そのせいかもしれないが、教会で初めて「救い」についての説教を聞いた人の中には「自分は救われなければならないほど哀れな人間ではない」と言う人がいる。しかし言うまでもなく、聖書が教え、私たちクリスチャンが日常的に口にする「救い」は人類すべてを対象にすることばである。

聖書も、災いからの救い(使徒行伝12:11)や苦難からの救い(詩編54:7)など一般的な意味における救いについて何回も触れているが、聖書独特の意味における「救い」は、神がご自身に背いた(そむいた)者の罪を赦し、破滅に向かう道から救い出し、永遠の命を与えてくださることを指す。

イエスがザアカイをお救いになったのは、十字架の死を目指す最後のエルサレム訪問途上のエリコの町での出来事であった。

主イエスは、ザアカイからの悔い改めのことばを聞き「人の子は、失われた人を捜すために来たのです」と言われました。それがイエスが人となってこられた目的です。

1、「失われた人」とはどんな人か?

 「失われた」とは、存在しているが、役に立っていない状態のことです。ある時、衣替えをしていたら、タンスの中に7万円の入った封筒を見つけて喜びました。そのお札は見つけられるまでは、ただの紙切れ状態でしたが、私が見つけた時、7万円分の価値をもつお札になったのです。

取税人ザアカイもそのように失われていました。取税人は敵国ローマの権威をかさに着て同胞のユダヤ人から税金をとるという嫌われ者でした。またユダヤ人からは娼婦と同じように罪人と見られていました。彼は能力はあっても、神と人のために役立ってはいなかったのです。自分のためにだけ生きる人生です。蓄えた富を活かす喜び、人を助ける喜び、何かを達成する喜びはありませんでした。

人は自分の造り主を離れ、主から与えられた役割をないがしろにし、自分中心に生きると「失われた人」になっていきます。あなたは失われていませんか。あなたの賜物(たまもの)は主のために生かされていますか。

 

2、キリストは「失われた人」を見つけ出される

 主イエスがエリコの町を通られたのは、「失われた人」を捜しだすためでした。イエスはそんな人を見つけては、役に立つ者に変えていくことを喜びとされていたようです。いちじく桑(クワ)の木に登っていたザアカイを名指しし、「急いで下りてきなさい」と声をかけられました。ザアカイはその通り急いで下りてきて、大喜びでイエスを家に迎えました。見つけ出した方と見つけ出された者の喜びが1つとなる場面です。以来2千年 そのような喜びが何度も繰り返されてきました。では、私たちが主に見つけ出されるために、何かできることがあるのでしょうか?ザアカイは木に登りました。あなたにとって「木に登る」とはどうすることか考えてください。

 

3.見つけ出された人は「新しい人」になる

 イエスを家に迎え入れたザアカイは「貧しい人に施し、だまし取った分は4倍にして返す」と主に約束します。だまし取る者が、与える者に変わったのです。役立たずだった者が役に立つ者になりました。「古い人」が死んで「新しい人」に生まれ変わりました。主ご自身がザアカイの心の中に入り、住まわれたのです。

「あなたはどこにいるのか」主はアダム以来ずっと、人類に問いかけてこられました。そして、その問いかけは「わたしはあなたを見つけた」というキリストのことばで完了するのです。

創世記2:25 3:19

2:25 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。

3:1 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。

3:2 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、

3:3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。

3:4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。

3:5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

3:6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。

3:7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

3:8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。

3:9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」

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2011415日 第15回  

 

『救い主イエス・キリスト』

 

救い主イエス・キリスト「当惑したユダヤ人指導者」マタイ27:62~28:15

 

主題

復活は間違いのない事実だった

 

暗証聖句 Ⅰテサロニケ414

私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。

 

主題の背景

先週の学びでは、復活否定を試みるいくつかの仮説を述べたが、そのいずれをも覆す(くつがえす)復活の大きな証拠の一つに、弟子たちの変容ぶりがある。すべてを捨てて従ってきた弟子たちは十字架の死を見てイエスが無残にも敗北したと思い込み、身を隠していたが、その弟子たちに復活後イエスは何度も姿を現わされた。エマオに向かう道で、イエスから(旧約)聖書にご自身について書いてあることを説き明かされた弟子たちは「私たちの心はうちに燃えていた」と語った。(ルカ24:32)「私たちは主を見た」という仲間の証言を疑ったトマスも、おそらく彼のために再び訪れてくださったイエスに十字架の傷を見せられ「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言われた時、「私の主。私の神」と告白した。(ヨハネ20:26~29)イエスとの師弟関係を否定したペテロでさえ、再献身の機会がイエスによって与えられた。(ヨハネ18:25~2727章)さらにイエスの昇天後 ぺンテコステの霊的体験は、弱かった弟子たちに力を与えた。(使徒行伝2章)彼らはユダヤ人議会の真ん中に引き出されても「神に聞き従うより、あなた方に聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを話さないわけにはいきません」(使徒行伝4:19~20)と語るほど、いかなる権威をも恐れぬ伝道者へと変えられたのである。12弟子の10名は殉教の死を遂げる。残りの2名の1人は裏切ったイスカリオテのユダ(自殺) 他ヨハネはイエスの母マリヤの面倒を最後まで見てパトモス島に流刑 そこでヨハネ黙示録を書く。

マタイが福音書を書いた頃、ユダヤ人の間ではまだ「弟子たちによる遺体盗難説」が言い広められていた。(マタイ28:151世紀の後半に、ユダヤ人の読者を対象に書いたと言われる福音書の中で、マタイはそのあたりの事情を詳しく記録して、間違いを正しておく必要を感じたのではないか。

聖書に復活や奇跡の記事がなければ、人々は聖書を受け入れやすいかもしれません。しかしそれを省けば、聖書は無力で無益な本になり下がります。十字架と復活は、信じる者には神の力なのです。

さて、イエスの復活を信じたくないのは知性を誇る現代人だけでなく、当時の祭司長たちもそうでした。

1、           祭司長やパリサイ人は不安から行動した

祭司長らは、弟子たちが遺体を盗み出して「復活した」と言いふらすことを恐れて、ローマ総督ピラトに墓番の兵士を要請しました。後にパリサイ派の律法学者ガマリエルが「あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう」(使徒行伝5:38)と忠告しました。復活しないと信じているなら、*ガマリエルの言うように放っておけばよかったのです。しかし恐れが祭司長らを動かしました。人は確信があるなら、不安や恐れに動かされることはないのです。

2、           祭司長やパリサイ人は、復活の事実を隠そうとした

もちろん祭司長らにキリストの復活を阻止することはできません。キリストはよみがえりました。祭司長らは自分が送った兵士たちから、かえってキリストの復活の一部始終を聞くことになりました。彼らは自分で行って復活の事実を確かめればよかったのですが、「番兵が眠っている間にイエスを盗んだ」ことにして、ことを収めようとしました。同じ神を信じていても、自分の立場を守り、自分の論理を通すためにキリストの復活を認めないのです。今日でもキリストを救い主と信じていても、復活を歴史的事実としては受け入れない人が沢山います。人間の合理主義にはどうしてもおろかに響くのでしょう。

3、           復活を信じる愚かなキリスト信仰に神の力は宿る

しかし、復活の主に出会った女性や弟子たちは、おこったこと、目撃したことをそのまま伝えていきました。そこに神の力がそのまま現れました。人間理性には愚かであっても、復活を文字通り信じる愚かさこそが力となったのです。もしその愚かさを恥じ、復活を否定したり、単なる個人の主観的体験として復活を伝えたりしていたなら、キリスト教が世界に広まることはなかったでしょう。譲歩した中途半端な信仰に、神の力は十全には働きません。復活信仰こそが、クリスチャンを大胆にし、迫害に耐えうる平安を与えるのです。あなたは復活を伝えることを恥じる気持ちがありませんか?神の愚かさは人の賢さに勝るのです。

 

*ガマリエル

イエスの時代の著名な律法学者でサンヘドリンの議員 使徒たちに対し激しい怒りを燃やす議員たちの中にあって、彼は冷静に発言 パウロの青年時代彼の下で律法を学んだ(使徒行伝22:3

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201148日 第14回 イースター礼拝 

 

 

『主イエス・キリストの生涯を学ぶ』

 

救い主イエス・キリスト「主イエスの復活」マタイ28:110

 

主題

主イエスの復活を喜んだ女たち

 

暗証聖句 マタイ286

ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。

 

主題の背景

キリスト教に好意を持ちながら、積極的には信仰を持てない人々のネックになっていることが一つあるなら 主イエスの復活ではないか。色々な反対する仮説をあげて、それに対し聖書の立場から考えてみよう。

・遺体盗難説

 イエスの遺体が冒涜(ぼうとく)されないように、あるいは復活神話を演出するために、弟子たちが他の場所に移したとする説→厳重に監視された墓から遺体を盗み出すには、相当な勇気と計画性、敏捷(びんしょう)な行動力が必要だが、イエスの死に絶望し、神殿の権力者たちを恐れて身を隠した弟子たちには不可能であろう。

・墓を間違えたとする説

 イエスの埋葬があわただしく行われ、女たちはまだ明け方(暗いうち)早朝やってきたので、墓を間違えたとする説→「マグダラのマリヤと他のマリヤ」が埋葬を見守っていたので、間違いはありえない。

・真理・幻覚節

 願望や期待から生じる心理作用だという説→熱狂的な女性たちの幻視体験がたちまち周囲に広がり、復活を期待していた弟子たちも自己暗示にかかったとするもの、幻視、白昼夢・集団ヒステリー、いずれの場合も大勢の人が異なる場所で同じものを見ることはありえない。悲しみに打ちひしがれた弟子たちは、復活の知らせ事態があまりにも意外で、なかなか信じられなかったというのが、実情である。

・仮死節

 仮死状態で葬られたイエスが自ら墓から出たとする説→十字架からおろされた後、槍(やり)で脇腹(わきばら)を突かれると血と水が流れ出た(ヨハネ19:34)というイエスが、仮に蘇生(そせい)したにしても墓から自力で抜け出すことは不可能。

「イエスの遺体が墓からなくなっていた。弟子たちが復活の主に会った」という厳然(げんぜん)なる歴史的事実を、完全に否定できる説はどこにもない。パウロの逆説的なことばを読もう。「キリストが復活されなかったなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。...もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です」(Ⅰコリント15:14,19)パウロの復活信仰は絶対的なものであった。十字架と復活の福音は、2千年の時を経てもなお揺らぐことなく輝く事実である。

十字架は安息日の前の日(木曜日日没から金曜日日没までの1日)厳密には金曜日の9時~3時にイエスは十字架にかかります。そして日没前までに埋葬がありました。金曜日日没から土曜日日没まで安息日をユダヤ人は、守ります。安息日が終わり、十字架刑から3日目の朝とは厳密には土曜日の日没過ぎから太陽が昇らないまだ暗いうちに、墓が開いてイエスの遺体が消えました。その後復活したイエスが12弟子や「500人以上の兄弟たちに同時に現れ」(Ⅰコリント15:6)たことを、聖書は歴史的な事実として伝えています。それを客観的に証明することはできないが、反証できる客観的な証拠もありません。ただ、復活の主に会った女性たちは、大喜びで弟子たちに知らせました。それゆえ私たちも復活の証明に時間をかけるよりも、まず復活を大喜びするべきです。

 

1、           キリストの復活は「初穂」である。

「キリストは、眠ったものの初穂として死者の中からよみがえられました」(Ⅰコリント15:20)それは私たちも同じように栄光の体で復活することの保証です。復活は、私たちを死への恐れから解放するだけでなく、死そのものから解放するのです。死の現実と力に対する実質的な勝利です。

2、           復活は創造主とのいのちのつながりを回復する。

 死は罪人(つみびと)をいのちの主から切り離す力です。罪人は創造主から切り離された状態で生まれ、人生の意味も目的もわからないまま生き、やがて地上の生涯を終え「永遠の死」に入ります。もし体の死で意識もすべて消滅するのであれば、死はさほど怖いものではないでしょう。しかし、死は意識が消滅することではありません。ヨハネの黙示録では、罪びとは「火の池」に投げ込まれ、永遠に苦しむと告げています。それが「永遠の死」の恐ろしさです。しかし、キリストを信じる者は永遠のいのちを受けて、創造主とのつながり回復します。体は死んでも朽ちることのない体で復活し「永遠の死」を免れます。それがキリストの復活が保証していることです。復活は、人生の意味と尊厳を回復し、生きることの価値と目的を呼び戻す力です。

3、           復活を信じる者だけが真の希望を語れる。

 復活がないとは、人間の存在には何の価値も希望もないことを意味します。

 復活を信じないのなら、気休め以外のどんな希望が語れるのでしょうか。

 不治の病いにかかった人に向かって、どんな慰めや励ましを語ることができるでしょうか。「死んだら無になるから、もう少しの辛抱だよ」とでも言うのでしょうか。しかし、復活を信じる者は誰に対しても、真の希望を語って励ますことができます。どんな境遇にある人にも、生きることの意味と価値を真正面から確信を持って語れます。葬儀でも、地上の別れの悲しみを超えて、再会の希望と喜びを分かち合えます。真の希望と慰めは、復活を信じる者だけが語れるのです。

 あなたは、本気で「死んでも生きる」と信じていますか。

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2011325日 第12回  

 

『主イエス・キリストの生涯を学ぶ』

 

地上を歩まれた神の子Ⅱ「神の国にふさわしい人」ルカ18:917

 

主題

無力な者への神の愛

 

暗証聖句 ルカ1816

子供たちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。

 

主題の背景

ルカの福音書は、十字架と復活の記録の前に、10章ものスペース(9:5119:44)を弟子たちに対するイエスの教えに費やしている。およそ3年にわたる宣教活動の後いよいよ十字架による贖いという使命遂行のためにエルサレムに向かう旅の途中の出来事であることが、随所にみられる。「エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ」(9:51)「町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた」(13:22)といった記録から明白である。

もっとも一路エルサレムを目指すというより、多少行きつ戻りつするようだが、単なる旅行記ではなく「教え」を本来の目的として編纂(へんさん)したからだろう。

イエスは「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」(ルカ18:25)と言われた。ではどんな人が入れるのでしょう?イエスはここで神の国にふさわしい者として「取税人」と「子供たち」をあげている。何が神の国にふさわしいのかを学ぶ。

 

1、           自分を低くする。

 このたとえ話で、神の国にふさわしくないのはパリサイ人です。彼は自分を高くし、人を裁く者だからです。行いを誇っていますが自己欺瞞(じこぎまん)であり、愛のかけらもありません。ふさわしいのは取税人です。罪人であることを認め、主の前で打ち砕かれています、自分を低くする者が神の国にふさわしいのです。自分を低くするのは、意思の力ではなく、悟りです。一生懸命頑張って、へりくだるのではありません。ただ、自分のありのままを認めることができればいいのです。自分のありのままを直視すれば、たいていの人は自分を低くせざるをえなくなります。自分のありのままを知れば、「神様。こんな罪人の私をあわれんでください」という取税人の祈りになり、知らなければ高慢なパリサイ人の祈りになります。自分を低くする人に恵みは流れます。「誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」この原則をもっと尊びましょう。

 

2、           思い切って幼子のようになる。

 次に神の国にふさわしいのは、「幼子のように神の国を受け入れる者」です。幼子になれ、純粋になれということではありません。それは無理です。では幼子のようになるとはどういうことでしょう。

第一に、打てば響くように、まっすぐ反応することです。イエスは、この時代は、「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった」(7:32)という歌のようだと言っておられますが、幼子は「歌えば踊る」のです。大人はいろいろな体験や知識や誇りのため、思考回路が複雑です。神のことばに、単純にストレートに反応してみませんか。

第二に、自分を何者かに見せないことです。幼子は自意識が少なく、自分を自分以上に見せかけようとはしません。幼子は耳から入ったことばをそのまままねて発音するので外国語の上達が早いように、みことばを聞いて素直に受け入れるのです。神の国の現実をそのまま受け入れるのです。ありのままの神の聖さ、愛、義を受け入れる人が、神の国にふさわしいのです。

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2011318日 第11回  

 

『主イエス・キリストの生涯を学ぶ』

 

地上を歩まれた神の子Ⅱ「生まれつきの盲人」 ヨハネ9

 

主題

主イエスは、世の光である

 

暗証聖句 ヨハネ95

わたしは世の光です。

 

主題の背景

イエスのガリラヤ伝道が終わり、エルサレムとその周辺での宣教活動が始まる。仮庵の祭りのためにエルサレムに上ったイエスが宮で語られた教えが、78章に記されている。イエスが教えたのは、宮の夫人の庭の献金箱がある所だった(8:20)。「仮庵の祭りでは、最初の夜、この夫人の庭にある4つの金の大燭台に火がともされ、祭りの間、毎晩ずっとともされた。それが照らす強い光は、エルサレムの町のすみずみに達したと言われる」(新聖書注解 新約Ⅰ)大燭台の火は、イスラエルの民が荒野を旅したとき、彼らを導いた「火の柱」(出エジプト13:21)を象徴するものだった。その火がこうこうと輝く中で、イエスは、「わたしは、世の光です。わたしに、従う者は、...いのちの光を持つのです」(ヨハネ9:5)自己紹介の第二のものである。イエスは「まことの光」として世においでになった(ヨハネ1:9)が、パリサイ人はイエスのことばに反論するばかりで、それを悟らなかった。自己紹介の第一のものは、「わたしがいのちのパンです」(ヨハネ6:35

「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」因縁を求める問いかけです。人はなにかに生まれつきます。何にもうまれつかない人はいません。誰でもが、「なぜ自分に生まれついたか」「なぜこんな条件や環境のもとに生まれたのか」「なぜこんな目に遭うのか」と悩みます。すべての人が、不条理としか思えない何かを背負って生きているのです。

1、           弟子たちは、原因と責任を求めました。

盲人に生まれついたのは、誰のせいかと問う弟子たちは、それが罪の結果であることはわかっています。究極的にはアダムの罪です。ですから、本人か親かと問うのは無意味なのです。そして、どっちと決めても現実は何も変わりません。しかし、人は無意味なこと真剣に問いたがります。何かのせいにして納得したいのかもしれません。特に現代は、合理的に説明できれば、それで終わりです。納得さえすれば、解決したかのようです。私たちにも自分の信仰を説明さえできれば、(それも必要ですが)現実は変わらずとも、それに甘んじてしなうことがないでしょうか。

2、           しかし、キリストは目的を示されました。

キリストの答えは、「神のわざがこの人に現れるため」でした。「なぜ」に対して、原因や責任を示すのではなく、神の栄光のためだと、目的を示されたのです。「生まれつきの不条理」は、罪の結果であることは明白です。しかし主は改めて罪を裁くのではなく、愛とあわれみを示されました。そして、現実を「癒し」によって変えられたのです。私たちは、苦しみの原因と責任ばかりを追及し、その意味と目的を忘れがちです。「なんでこんなことが私に」と問うことばかりせず、「主はこの苦しみを通して私にどんなわざをなさりたいのか。何を示し、私をどう変えたいのか」と考えるべきです。イサクもヨセフもダビデもパウロも「なぜこんなことが私に」と愚痴ることはありませんでした。主のわざがなされることを期待したのです。

過去を振り返るとき、「なぜあんなことが」と問わず「何のために」と問うべきです。それは「キリストに似た者に造り変えられるため」です。なぜとしか問わなかったために、キリストに似た者になり損ねてきたと悔やんでいる方もいるかもしれません。苦しみの時「なぜ」よりも「何のために」と問うようにしましょう。それだけでも、生き方が変わります。キリストが約束通り、ご自身のわざを現わしてくださいます。キリストは「世の光」であり、人間の抱える罪の苦しみに解決を与える方です。

 

出エジプト13:21,22

13:21 主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。

13:22 昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。

ヨハネ1:9

1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

ヨハネ6:35

6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

ヨハネ8:20

8:20 イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕えなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

 

○当時安息日の細則は1500もあった。細則には口伝律法が多かった。安息日に人を癒すことは律法違反であった。イエスは安息日にも癒しをされた。

 

○泥につばきを塗り 目に塗って癒す方法は、救い主のみができる癒しの方法であった。

 

○シロアムの池 エルサレム南東部にある長方形の石作造りの人工池。ギホンの泉の水がトンネル水路をとおって注がれていた。BC700年頃南王国ユダのヒゼキア王が城壁内に水を引くために掘ったことからネヘミヤ2:14では「王の池」と呼ばれた。

 

○指導者たちは「イエスをキリスト(救い主)であると告白するものがあれば、その者を会堂(シナゴーグ)から追放する」と決めていた。「会堂からの追放」は破門であり、地域共同体の中で住民との交際を完全に断たれる厳罰であった。後日癒された男が会堂から追放されたことを知ったイエスは、彼を探し出し慰め その魂を取り扱われた。

 

○当時のユダヤ人のパリサイ派の神学ではユダヤ人は神の民のゆえにすでに救われているとの解釈であった。律法を守る理由は、神の民としての地位を守るためであった。救いは排他主義(イスラエルに限定されており、異邦人と分かち合うものではなかった)であった。

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2011311日 第10回  

 

『主イエス・キリストの生涯を学ぶ』

 

 地上を歩まれた神の子Ⅱ「5千人の給食」

ヨハネ61節~59

(マタイ14:1321マルコ6:3044ルカ9:1017

主題

主イエスは、必要を満たしてくださる

 

暗証聖句 ヨハネ635

わたしがいのちのパンです。わたしに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

 

主題の背景

主イエスの多くの奇跡の中で、4福音書記者全員が記録しているのは、「5千人の給食」だけである。共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)を補足する意図をもって執筆したヨハネがこの奇跡を省略しなかったのは、最も注目すべき奇跡と位置づけたからだろう。またヨハネだけがこの奇跡(ヨハネ6:115)の意味(ヨハネ6:2259)を明らかにしている。

3共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)はエルサレム降落AD70年以前に書かれ ヨハネの福音書は1世紀終わりごろ エルサレム降落以降書かれた。ヨハネが執筆したころは、すでにイエスの生涯や働きを直接知る人が少なくなり、イエスが人となってこの世に来られた神の子であることを否定する偽教師も現れて来ていた。ヨハネの福音書は他の福音書と比べイエスの神性を強調しイエスが神である証言を記録していることが特徴。

5千人の給食の奇跡はガリラヤのユダヤ人の間で行われた。これに似ている「4千人の給食」(マタイ15:3239マルコ8:110)の奇跡は異邦人の住むデカポリス(ガリラヤ湖対岸)地方で異邦人の間で行われた。

5千人の給食」の出来事は、実に神の国の祝祭というべきものである。「5つのパンと2匹の魚」の奇跡を自分の常識の範囲で、またヒューマニズム的に、または合理的に解釈しようとせず、神の国の豊かさとして素直に驚くべきである。

 

1、           イエスは神の国の原理を示された。

サタンに誘われても、自分のためには石をパンに変えなかったイエスも、群衆のためには石をパンに変えられました。

弟子たちは成人男子だけで5千人という目の前の現実に圧倒されました。人が多すぎる。山里離れている。お金がない。もっともです。これだけの群衆の腹を満たすことがいかに不可能かは説明できます。いや群衆を解散させ目の前からいなくなれば、一応解決かもしれません。

しかしイエスは、ここでも神の国の原理をはっきり示されました。「5つのパンと2匹の魚」という少年の貧しいお弁当を用いて、群衆を満腹させられたのです。無いに等しいものでも、イエスが祝福なされば、すべてを満たすのです。小さいもの、乏しいものでも、主の御手の中で圧倒的な豊かさになる、それが神の国の原理です。「からし種」のたとえと同じです。主は私たちが信仰を持って小さな自分を差し出せば、それで神の国のわざをなさいます。

 

2、           イエスは神の国の宴会(祝宴)を見せられた

それだけではありません。群衆は満腹して、なお残りを集めると、12のかごいっぱいになりました。最初のものより、残ったものの方がはるかに多いのです。わずかなものが有り余る豊かさになる。それが神の国の豊かさです。

ここで繰り広げられた光景は、神の国の祝宴だと思います。満たされていない者は一人もいません。どんな人にも全員神の祝福が行き届いて、なお余りあるのです。その祝宴の中に「天からのまことのパン」「神のパン」「いのちのパン」であるイエスがおられます。(3233節 35節)

 

3、           自分をささげなければ、神の国の豊かさは味わえない

少年が「5つのパンと2匹の魚」を主に捧げなければ、群衆全体が満たされなかった。もし彼が一人で食べれば、それでおしまいでした。残念ながらクリスチャンであっても、自分のものを自分のために使う人が多いのです。でなければ、神の国の祝福はもっと広がっているはずです。私たちが、自分の持っているものを惜しまないで主に捧げるなら、神の国の豊かさをみんなで味わうことができます。まだそんな体験をしていないのであれば、思い切って捧げてみませんか。主が何を起こしてくださるか、見たいとは思いませんか。主はあなたのささげものを待っておられます。

 

○デナリオン ローマの貨幣単位 1デナリオンとは1ドラクメと等価(1日の賃金にあたる)

 

○スタディオン 約185m ミリオンの8分の1

 

○からし種のたとえ(マタイ13:31 マルコ5:3032)

イエスはまた言われた。「神の国は、何に比べたらよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。それはちょうど一粒のからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、他の種より小さいのですが、一度蒔かれ、成長すると、他のどの野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作るほどになります。」

 

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